gerahaのブログ

テーマは決めていませんが、何か思いついたことを書きたいと思います。

心と身体は一つのものか

仏教には「身心一如」という言葉があるらしい。身体と精神は一体であって、分けることはできず、一つのものの両面にすぎない、とのことだ。

 

一方で、「心身二元論」という考えがある。身体とは別に精神が存在し、生きている限り両者は相互に作用するが、身体が滅びたあとも精神は独立して存在しうる、とされる。

 

その日の体調が良ければ気持ちが明るいが、悪ければ気持ちが暗くなりがちなので、「身心一如」という考えは、ある意味では、当たっている気がする。

 

心身二元論」はどうだろうか。

 

たとえば、「誰かに何かを言われて、心が傷つく」という現象がある。

人の目に見える物理的な現象としては、

 

「『誰か』の口から音波が発せられ、それが相手の鼓膜を振動させた」

 

に過ぎない。そのことによって、鼓膜がダメージを受けるわけでも、皮膚に目に見える傷口が開くわけでもない。風に煽られるよりも、身体的なダメージは少ないように見える。しかし、言われた相手は確実に衝撃を受けている。どこが痛いのか、と聞かれたら、「心が痛い」ということになるだろう。このようなことがあるから、身体とは別に「心」が存在する、と捉えられるのは、自然なことかもしれない。

 

ただ、上記とは別に、人の目に見えない物理的な(化学的な?)現象も発生している。

『誰か』の口から発せられた音波は、相手の鼓膜を振動させる。

鼓膜の振動は、神経を通して脳に伝達される。

脳はその振動を言語として解釈し、自分にとっての意味を拾い出す。

拾い出した意味が自分を脅かすものである場合、動物の本能として、

『闘うか、逃げるか』の準備をするためのストレスホルモン(コルチゾールなど)が全身に分泌される。

ストレスホルモン分泌の結果として、脈拍が増え、血圧と体温が上昇する。ケガに備えて、血小板が凝集し、血液が固まりやすくなる(血栓もできやすくなる)。

しかし、法治国家の文明社会では、相手を叩くことも、その場から逃走することも、その後の自分自身の立場を脅かす行動になってしまい、やりにくい。本能は動こうとするが、理性がブレーキをかけているので、身体的にはエンジンの空ぶかし状態になり、心臓が疲弊し、血管もダメージを受けてしまう。物理、化学的な現象として、体の心臓血管系がダメージを負っているのだ。

そう考えると、「誰かに何かを言われて、心が傷つく」という現象は、独立した「心」の存在を裏付けるものではなく、動物としての体の仕組みに起因する物理、化学的な現象とも言える。ここで言う「心」の正体は「心臓血管系」なのかもしれない。

 

「考え方(心)はソフトウェアのように、自由に更新できる」という考えに無意識にはまってしまうこともあったが、どうも最近では、「考え方(心)はある程度までは更新できるが、脳(身体)のハードウェア個性に縛られる部分も大きい」と感じるようになっている。