やっぱり言葉のことを考えている
ブログに書くネタが思いつかないまま、だいぶ期間が開いてしまった。
考えていることはある。しかし、それを書くとなると、なんか言いたいことと違ってしまうような気がするのだ。
言葉というのは難しいと思う。
言葉になる前のものを伝えられないからね。
でも今回は、ふと思い立ったので、あえて、考えていたことを言葉にして書いてみようと思う。
僕がもう少し若かった一時期に、無門関やら臨在録を読んで、禅問答が面白いと思っていたことがあった。
禅問答は、たとえば、
「達磨大師には、なぜヒゲがないのか」
胡子無髭
という問いに対して、答えを考えるというものだ(と思う)。
禅宗の初祖、達磨大師はヒゲを蓄えていた。そんな達磨大師に「ヒゲがない」理由は何なのか。
自分でぐるぐる考えていくと、
そもそも「ヒゲ」とは何なのか。
という問いが浮かんだ。
しかし、この問いは、さらなる大問題への呼び水に過ぎなかった。
「有無」とは何なのか。
ここまでくると、なんというか、宇宙的なんだよね。
掛け軸に描かれた達磨大師のヒゲから、心は宇宙へ旅立った。
心の旅のスケールが大きくなったというよりも、
ヒゲの中に宇宙を見出すことで、もはや「大きさ」が問題ではなくなったのだ。
「ヒゲを持つ達磨大師にヒゲがない」
ということを問いの前提にするのは、論理の破綻で、言葉としてみると意味が無いように思える。しかし、「文が間違っている」と判断して切り捨てきれない広がりや深さを、問いの中に感じる。このような問いは、通常の文ではなく、脳内に何らかの反応を引き起こすための引き金のようなものじゃないかと思っている。
そしてそれは、言葉になる前のものにアクセスできる可能性を孕んでいるような気がする。
さて、件の禅問答の問いに対する答えは何か。
個人的には、それは言葉にできないものじゃないかなと思っている。
その問いに答えることが目的なのではなく、問いの中から世界を見つめるのか、体験するのか、、、
すべての問いには答えが用意されているわけではなくて、かといって、自分で無理に答えを作り出すことも違うような。。。